たまご屋おやじの独り言 2003年7月

たまご屋おやじの独り言 2003年7月


27/July/03

オランダ、ベルギー、ドイツ トリインフルエンザ(AI)の危機去る

今年の2月末にオランダに発生し、一部ベルギー、ドイツに飛び火したトリインフルエンザ(AI)はヨーロッパのみならず、世界中の養鶏家を震撼させた。
 
7月11日、European Commissionによればオランダの一部をのぞいて、AIに関する規制を解除した。ひとまず危機は去ったようである。AIの感染があり、殺処分され、空家となっていた鶏舎にも鶏が順次導入されている。手順としてはまずその鶏舎にテスト鶏を入れ、AIの再感染がないことを確かめて行われるようだ。
 
しかし、AIがオランダ養鶏業界に残した傷跡はあまりにも大きい。AIの発生によって、オランダで一人の獣医さんが感染し死亡するというショッキングなニュースがあったにもかかわらず、これによってパニックになり、タマゴ、鶏肉類を消費者が食べなくなることは起きなかったようなのが不幸中の幸いである。
 
それどころか、最大の鶏卵輸出国のオランダが移動禁止になり、ヨーロッパ全体の卵は逼迫し鶏卵価格は上昇した。
皮肉なことだがスペイン、東欧その他周辺諸国の養鶏家は潤ったという結果になった。

27/July/03

ぶらりぶらり通信 当世写真事情

写真は楽しい。片付けごと等をしていて古い写真などが見つかるとおもわず見入って しまう。今までになんやかやと撮りためた写真をかき集めるとダンボール箱に4−5杯あろうか、生来の整理下手でそのまま箱にぶちこんである。
 
必要な一枚の写真を見つけるとなると大騒ぎになる。私のパソコン師匠、高橋さんは現役引退を機会に、同じくダンボールに溜まっていたそれらを整理しCDにしてしまったと言う。師匠に相談すると、そんなものは簡単でCD 4−5枚に収まってしまうとのたまう。
 
よく聞いて見ると、ちゃんとそのネガが保存されていての話だ、そこで私はまたもや失格。それなら古い写真を一枚一枚スキャナーでとって、CDに収めればよいとのことだが、今のところそんな気力もない。
 
よく行く写真屋写楽」のオヤジさんが智恵をかしてくれた。この店は他店に先駆けて現像のデジタル化に取り組み、早い、安いのプリントで多いに繁盛してきた。ところがデジタルカメラの出現により環境は激変した、繁盛していた写真プリントがこの3年で半分になってしまったと彼は話していた。
 
私はいまだにフィルム派なので、気の毒がって?今後プリントと同時にネガをデジタルにしてそれをとっておいてくれるという。一枚100円のCDに普通の写真なら300枚は入るそうだ。時代が変わってしまったらしい。
 
そろそろデジタルカメラに乗り換えようと、何度もカメラ店に行くのだが、新製品のきらびやかさに気後れして、未だに長年連れ添ったフィルム使用の馬鹿ちょんカメラを手放せないでいる。

20/July/03

ぶらりぶらり通信 ホタルが帰ってきた その2

消えてしまった岡部町のホタルを取り戻そうと、町の有志たちが活動を始めてからもう拾数年になる。 平家ホタルの人工飼育を各人分担して自分の家でそれを繰り返した。これは365日気の抜けない、そして根気のいる仕事である。
 
生えさの用意、水の取り替え、温度管理、タバコの煙・殺虫剤からの分離・・・一つでもミスすれば全滅してしまい、それまでの努力はゼロになる。白状するが、私はたった一日の温度管理の不注意でそれを全滅させてしまった。日なたにホタルの幼虫のいる水槽を置き忘れ高温にしてしまったのである。
 
そういう訳で私にはホタルを語る資格はないのだが、難関を突破してホタル名人たちは毎年数千匹のホタルを見事に発生させ、交尾、産卵、幼虫、そしてこれを里山の小川に帰している。この気が遠くなる作業を10数年間繰り返しても、一度バランスを崩した自然は受けつけてくれず、ホタルの自然発生はならなかった。
 
7月9日夜、歯医者の河田先生の奥さんのあとについて、私は孫ともども小雨の降る暗い田んぼ道を急いだ。永年、休耕田となっていたその草むらには雨に濡れて平家ホタルのかすかな青い光があった。田んぼに戻した幼虫が自力で立派に成虫になったのだ。
 
河田先生も駆けつけた、この時を待っていたのだ。見ている皆の胸に熱いものがこみあげた。

18/July/03

<日本たまご事情>シンガポールたまご事情 その2

シンガポールの養鶏家Kohさんの話を続けます。
 
当地駐在の日本人は現地の卵を衛生上の問題で怖がって生で食べません。私ども愛鶏園が現地の日系デパートに生食用の卵を輸出していたこともKohさんは知っていました。シンガポール国内の養鶏が隣のマレーシアなどから来る安値の卵に対抗するには、徹底した差別化しかないと言うのがKohさんの結論でした。
 
既に述べましたように、周辺諸国に比べてダントツに所得水準の高いシンガポールの消費者の関心は、卵について値段の安さもさることながら、その鮮度、安全性、生産履歴・・・等に移ってきているとKohさんは言います。
 
ちなみに ALICの海外駐在員小林さんの調査によれば、シンガポールの鶏卵価格は日本からの空輸によるものが1個1シンガポールドル(72円)、国内で生食用に生産したものが同75セント(54円)と日本人をターゲットにしたものはきわめて高い価格で販売されています。通常のものは同12〜30セント( 8.6〜21.6円)、マレーシア産のものはさらに安値であるようです。
 
生産履歴がわかり、鮮度が良く、安心なシンガポール国産の卵を増やすチャンスだと、Kohさん親子は意気軒昂でした。このことは、とりもなおさず日本の鶏卵業界が直面するであろう中国卵の安値攻勢に対抗する方策そのものと確信しました。

13/July/03

ぶらりぶらり通信 ホタルが帰ってきた

前回、深谷の街に30年ぶりで映画館が帰ってきた話をしました。今度はホタルがわが岡部町に帰ってきた嬉しい便りをします。
 
私の住んでいる岡部町は豊かな農村地帯です。畑、田んぼ、里山、防風林、神社、鎮守の森、お寺さん、、、これらが伝統的に地域の人たちに守られてとても美しいところです。この土地の私と同年代の人たちは子供のころ、里山や小川は格好の遊び場であり、鮒、なまず、かに、トンボ、かぶと虫、ホタル・・・はその遊び相手であったと話します。
 
この自然の豊かな岡部町でさえ、便利で快適な生活と、一見豊かに見える生活と引き換えに多くの自然の生き物を失ってしまいました。
 
確かに昔は自然が豊かで、その生き物達が豊富であったのです。しかし同時に害虫も多かったことも忘れてはならないことです。自然が豊かでも決して良いことばかりでは無かったのです。
 
芭蕉の「蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと」ほどではありませんが、私の子供時代は蚤(のみ)虱(しらみ)は当たり前で、これに食われて痒くて夜中ポリポリとかきむしった記憶があります。今でこそ殺虫剤のDDT,BHCは悪者となっていますが、それが出た当初、家の中から蚤、虱を追い出すまさに魔法の薬であったのです。小学生のころ「虱退治」といって、全員頭からDDT粉剤をかけられたのを覚えています、今ならとんでもない話です。
 
しかしこれら便利な農薬は害虫を殺すと同時に他の生き物も皆殺しにしてしまい、気が付いたら岡部町からホタル他多くの生き物が消えていました。こんな事をしていると、同じ生き物として人間さまも危ないとの危機感があります。快適な生活と豊かな自然の共存はこれからの課題であり、難しい問題です。
 
実は岡部町にはこの問題に真正面から取り組んだ素晴らしい人たちがおります。縫製業の館野さん、歯医者の河田先生、酒屋の松崎さん・・・この人たちの十数年にわたる努力によって、ホタルが岡部町に帰ってきたのです。
 
この話は次回。

8/July/03

<日本たまご事情>シンガポールたまご事情

先日、シンガポールの養鶏家Kohさん親子がやってきた。丁度SARS騒ぎの真っ最中であるし、こちらも警戒した。
 
話しているうちに、どこの国でもその国独特の問題があり、またそれを解決するのに特別な智恵を持っているものだと感じ入った。ご存知のごとくシンガポールは天然資源もなにもなく、東京都ほどの小さな島に300万人少々の人が住んでいる。立地的に言えば他の周辺諸国がそうであるように、貧しい南方の小島であっても不思議はない。
 
ところが周辺諸国に比べてダントツに所得が多く、この国だけが突出している。何故であろうか?  以前、シンガポールチャンギ国際空港を訪ねたことがあるが、それは成田空港を凌ぐものであったし、とても300万人の国のものとは思えなかった。資源、食糧、水さえ自国で賄えないシンガポール国民は徹底的にその「智恵」を国家生存の道具にした。優れたリーダーのもとにそれはかなり強権をもって推し進められた。国家戦略として、貿易、金融、ハブ空港、コンテナ基地、加工貿易、観光、IT・・・に徹底的に力をいれた。いずれも「智恵」の産物だ。
 
この国の鶏卵の自給率は35%で、その消費量も正確な統計はないが国民一人あたり年間300個を超すという。日本に近いハイレベルである。65%の鶏卵はすぐ隣のマレーシア他から半値ちかい価格で自由に入ってくる。シンガポール政府は自国の農産物になんら保護政策をとらない。鶏卵もその例外ではない。このような状況下で鶏卵の自給率を35%から55%に高める計画が民間で進められている。
 
ここにもシンガポール養鶏家の智恵が生かされているのだが、日本が将来予測される安値の中国卵の輸入にただ脅えるのではなく、それに対処するヒントがKohさんの話に含まれていた。その話は次回。

5/July/03

ぶらりぶらり通信 たそがれ清兵衛

深谷の街に映画館が戻ってきた、30年ぶりのことだ。
 
私達が岡部町に引っ越してきた当時、隣町の深谷にはそれがあった。たしか"ムサシの館"とか言ったが定かではない。ご多分にもれず、繁盛していた旧街道沿いの商店街は、この30年間時代の変化についていけず、新興商店街との競争に敗れ寂れてしまった。何時の間にか映画館は消えてしまい、付き合いのあった目抜き通りの銀行支店も合理化にあってクローズしてしまった。
 
30年間ジリ貧で元気のなかった商店街にある変化が起こった。これではならじと街の青年たちが応援してこの銀行の建物をそっくり映画館にしてしまったのだ。大金庫の扉はそのまま残し、そこを通り抜けた上の部屋が映写室といった具合である。椅子席は50席もあろうか、スクリーンがあまりにも近いので、後ろのほうが特等席だ。
 
その晩に上映されたのは「たそがれ清兵衛」であった。他の街ではもうとっくに上映は終わっている。どちらかと言えば一周遅れ二周遅れのそれだが、良いものを安く借りてきて見せてくれるから有り難い。
 
ご存知「たそがれ清兵衛」は原作藤沢周平山田洋次監督初めての時代劇である。最後ほうに出てくるのだが、舞踏家田中ミン演ずる凄みのある剣客ぶりに映画ならではの醍醐味を味わった。嬉しくなって、ENDの出たところで手を叩いたら、他にも2−3人同じ事をする同年配の人がいた。
 
つぎは「壬生義士伝」、「戦場のピアニスト」と続くそうな。これでは今年の夏はぶらりぶらりとしてはいられない。