秩父歩き遍路 番外

5月の半ばから7月の後半にかけて大体週一回くらいののんびりしたペースで34ヶ所のお寺を歩いていたのだが、終わってみるとなんだか淋しくなってしまった、そこで学生時代からの友人を誘って札所のハイライトを一晩泊まり車で廻ることにした。
誘ったU先輩と同期のKさんはいずれも現役時代、食品工場の管理職として全国を飛び回っていた、今はそれぞれ悠々自適の生活を送っている、その二人は卒業以来顔を合わせていないが、共通の趣味が俳句なのでメールのやりとりをしている、私は俳句の話にはついていけないがそれらのメールを横目で睨みながら時々茶々を入れている、この二人とは私はときどき会っている。

朝10時に西武秩父駅で二人と落ち合い、私の運転する車で小鹿野町の観音院に向かった、車中二人の四十数年ぶりの話は尽きず、私も加わりたいのだがそうすると運転が危険になるので我慢した、観音院の急な石段のそこここには地元の俳句協会の人たちによる句碑が建っており、前回来たときにはあまり気がつかなかった。
法性寺の奥の院をめぐり、柴原温泉の江戸時代から続く柳屋に宿を取り、夜通し話すつもりであったが皆疲れが出て10時前には寝付いてしまった、翌日四万部寺、水潜寺をまわった。

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」これは秩父出身の俳人金子兜太氏の句であるが、水潜寺の境内に立派なこの句碑があったがこれも前回見落とした、 兜太氏は90歳にちかい現役の俳人であり、父親は皆野町で医者をやっていた金子伊昔紅という粋人で秩父音頭豊年踊りを再興し俳句をよくしたと博学のU先輩が教えてくれた。
そういえば私は何年か前、兜太氏の弟で金子医院の跡を継いだ千侍先生に秩父音頭の正式な踊り方のコーチを受けたことがある、振りの大きい見事なものであった、先生は秩父音頭の家元を兼ねている。

話が盛り上がって、それでは皆野町の明治25年創業の鰻や「吉見屋」に行くことにした、ここの離れはかって金子伊昔紅、兜太をはじめとする俳句好きや、楸邨などの俳人が一升瓶をならべてとぐろを巻いていたという、案内してくれた親父さんの先代もその仲間で、そこには皆で酔って襖になぐり書きしたした俳句が残っている。
札所めぐりの話が俳句の話になってしまったが、秩父は面白い。