火葬

身近の弟が亡くなると、いつもとは違うことを考えるようになった。
自分の死についてである。
その事はあまり考えたくないからいつも先延ばししてきたが、もう「待った」が効かないことを思い知らされた。

「明日死ぬと分ったら、あなたが今日やろうとしていることをまだしますか?」たしかこのような意味だったと思うが、これはアップル創業者スチーブ・ジョブスの言葉である、と同じ町に住む若いYさんが教えてくれた。

弟を荼毘にふす火葬場は混んでいた、隣では坊さんが最後の別れのための経を唱えており、それがすむと弟のために牧師さんがヨハネ黙示録の一節を読み別れの言葉とし弟は焼かれた、弟のつれあいと子供たちは泣きくずれた。
火葬の儀式はあっけないほど事務的に行われた、おそらく自分の場合も同じ流れになるのであろう。

死んだら何が残るのであろう、生物学的には「お骨」だけだ、数日前まで喋っていた弟の魂はどこに行ってしまったのであろう?
古来、人の死とともにすべてのものが無くなるのは悲しすぎるので、故人の魂がきっと何処かにいる筈だと考えたに違いない、その豊かな想像力、創造力のほうに私は賭ける。

考えようによっては古い身体は死とともに無くなるが、コピーされた遺伝子として弟は子供たちの新しい身体となって生き続けている、魂あるいは心の部分は故人の記憶となって縁者に残り、またその意思すら受け継がれる、決して無くなっていないのだと考える。
スチーブのように「明日死んでも良いようなことを今日しているか」と問われれば否であるが、そのように覚悟することだけは出来る。