それは中国卵の輸入から始まった(2)

それは中国卵の輸入から始まった(2)

 やっと朝晩涼しくなったが、今年の猛暑は恐ろしかった。
私の住む深谷市は今年日本一の最高温度41、1度を記録した熊谷市の隣であるから、それは暑かった人間もバテたが鶏の熱死も多かった。

特に関西山陽地区はそれに台風の被害が加わり、鶏卵の生産が減少しその価格が関東地方に比べて一割前後高くなっている、さて本題。

<1922年、中国卵が日本国内消費量の三分の一を占めたことは既に述べた。それを巻き返して輸入ゼロに持ち込んだ努力とはなんであったのだろう?
当時、セーフガードによる高率関税などあるわけはなし、どうしたのであろう?

業界の危機に対処した先人たちの努力を振り返ってみよう。

当時の上海卵は揚子江沿岸で放し飼いされていた農家の卵を小船で集め纏めて上海で日本向けに箱詰され出荷されていた。夏季は品質の問題で極端に少なくなり、冬季にそれは集中した。それでも腐敗卵の混入は避けられず、輸入鶏卵問屋はその抜き取りが大事な仕事であった。

一方日本国内の生産体制も主力は農家の10羽前後の放し飼いによるもので、これをかき集めて都市部に供給したが鶏卵の品質は五十歩百歩であった。

中国卵輸入の危機をきっかけに、国及び民間による種鶏改良事業、飼育方式の改善(放し飼いから屋内飼育へ)、飼料配合の技術開発、その他に本格的に取り組み、いわゆる近代養鶏の導火線になった。

同時に撤廃された関税25%を5年がかりで復活させたが、やはり一番大きかったのは中国にない品質の鶏卵を安く大量に作るシステムを官民一体で作り上げたことによるのであろう。決して禁止的な保護関税に守られたものではなく、養鶏農家の切磋琢磨と自助努力が最終的にものを云った。>