たまご屋爺さんの独り言 私の櫛挽物語  20201016

 

たまご屋爺さんの独り言 私の櫛挽物語  20201016


私は50数年前家族を引き連れ神奈川県の相模原市から現地(当時は埼玉県大里郡岡部町櫛挽現在は深谷市櫛挽)へ引っ越してきた。

当時私たちに子供は4人いた。


相模原時代からたまご屋をしていたが、その地域がニワトリには当時一番恐ろしい伝染病ニューカッスルに襲われ多くのニワトリが強制的に殺処分されてしまった、当時それに対する有効なワクチンもなくその汚染地帯を逃げ出すのが仕事を続けるために必要であった。


新天地を求めて方々訪ねたが最終的に現在の櫛挽開拓地が気に入った、だがこの土地に誰一人知り合いがいる訳ではなく、仕方なしに当時の古ぼけた櫛挽開拓事務所に飛び込み込んだ。

幸い古武士のような野田組合長がいらして、「お前が本気で家族ともどもここへ来て仕事をしたいのなら新規入植の面倒を見てやる」「ハイお願いします」私も若かった、それで決まり。


それから50年あっという間に過ぎてしまい、幸いたまご屋の仕事を子供たちが引き継いでくれこれで三代目、子供たちにとってはこの櫛挽が故郷なのだ。

5人目の最後の子もここで産まれ育ち、世話になった野田組合長をはじめ初代入植者の先輩たちもほとんど亡くなってしまった。

ふと気が付けば「たまご屋おやじ」が「たまご屋爺さん」になっていた。

 

櫛挽(深谷市)にて

山芋の葉も色づき始めた。