たまご屋おやじの独り言 2004年7月

たまご屋おやじの独り言 2004年7月

31/July/04

ぶらりぶらりボルネオ キナバル山徘徊?

キナバル山はボルネオ島サバ州の人たちにとっては畏れ敬うものであり、誇りそのものである。 それはこの山を守り案内するガイド一人一人に見て取れる。この山は現在世界遺産として登録され、サバ州の公園局が管理している。入山料をとり、一日の入山者数を100名くらいに制限している。 この山の掟は登山者8名以内に必ず一名のガイドを付けなければならない。8名でも一人、1名でも一人である。

ガイドの仕事は決して楽ではない。強い体力と経験知識が要求される。外国からの登山者も多いから英語も喋らねばならない。 特にこの山は赤道直下にあるにもかかわらず、標高が高いので気温に差があり、その植物群、動物群に世界にここだけのものがある。それを目当てに世界中の人々が訪れる。そう言えば少し山道を登っただけで、今まで見たこともない野鳥や植物に出会える。 ガイドはその質問に答えてくれる。

こう書けば簡単だが実際は、登り道の連続でこちらは息も絶え絶えやっと聞いているのに、ガイドは涼しい顔で答えてくれる。それにもましてここのガイドの凄いところは、登山者の出すゴミを一つ残らず持ち帰ってしまうことである。それを見ていると、恥ずかしくて迂闊にゴミは落とせない。
山登りの経験は多くはないが、こんなにゴミのないきれいな山道を見たことが無い。登山道の両側は太古から続く熱帯の原生林だが、それに似合うのは質素なあまり人手を加えていないきれいな山道に違いない。

ガイド達がここまでやれるのはきっとキナバル山の「山の神」の力であろう、そんな気がしてきた。

31/July/04

この秋は風か嵐かわからねど…

私の住んでいる埼玉県熊谷地方は、夏の最高気温が高いので有名なところで、鶏の熱死対策にはとても神経をつかう。 今年は七月の初めから晴天が続き、連日35度Cをオーバーしている。気象庁発表で37度となると鶏のいる現場では40度を越えてしまう。これはもう鶏の我慢の限界を超しているので、熱死が始まる。

一番危険なのは、梅雨明けの一気に気温の上がる時で、正直手の打ちようが無い。この一撃をうまく切り抜ければその年は被害は少ないことになる。 今年の熊谷地方は最初から暑いので、鶏は暑さ慣れしたと言うか高温のわりに熱死が少ない。その代わり関東地方でも、例年涼しくて熱死などなかったところがやられたりしている。暑さに対して抵抗力が無かったというべきか、局地的な気候の変動があったのか良く判らない。

鶏種によっては確かに夏の暑さに抵抗力の差がある。一方の鶏種が暑さでバタバタ死んでいるのに、隣の他の鶏種はケロリとしていたりする。その差は歴然としているが、その鶏種は他のメリットも多いので生き残っている。

鶏舎のシステムには暑さに対してそれぞれ一長一短ある。さすがに良く出来たウィンドウレス鶏舎はその被害は少ないが、油断していると真夏の停電などで大事故につながる。開放鶏舎はその点は心配ないが、風がピタリと止まった昼下がり、止めの西日に炙られては打つ手が少ない。とにかく現在手持ちの鶏舎で、工夫してこの暑さを切り抜けるしかない。

熱死の多かった秋は不思議と卵価が急回復したと記憶している。秋は近い。

「この秋は風か嵐か知らねども、今日の務めの田の草を取る」  読人不知

24/July/04

ぶらりぶらりボルネオ キナバル山徘徊?

キナバル山麓の山小屋に妙に気になる詩が壁に書き付けてあった。もともとはアメリカインディアン、ナバホ族の酋長の詩らしいが、急いでメモしたのであるいは書き間違いがあるかも知れない。

Only after the last tree has cut down.
Only after the last river has been poisoned.
Only after the last fish has caught.
Only then will you find that money can not be eaten.

最後の樹を切り倒しちまったその時になってから。
最後のきれいな河を汚しちまったその時になってから。
河の最後の魚を取り尽しちまったその時になってから。
その時になって初めて、手にしたお金が食えない代物と知るんもんさ。
                 (ヘボ訳  富士雄)
この詩は、開発の結果手にしたお金の値打ちと、失った物の大きさを痛烈に詠ったナバホ酋長のうめき声に聞こえる。

ここボルネオ島サバ州でも、開発と環境保護のせめぎ合いの問題は大きい。 ここキナバルの人たちは開発の誘惑から懸命になって環境を守った。そしてそれが世界遺産の登録につながった。誇り高きこの地の人たちにとっては大切なものを失う前に、それを守ったのだという記念の詩にも読み取れる。

24/July/04

日本たまご事情 鳥インフルエンザ 中国 ヴェトナム タイ で再発

ここ数週間、中国 ヴェトナム タイ での鳥インフルエンザH5N1再発は注意を要する。この地域は、年初(2004)それの大流行があり、この地域だけでラフな数字であるが一億羽の家禽類が死亡あるいは殺処分され、24名の人が亡くなっている。いずれの国も今年の四月前後に鳥インフルエンザの終息宣言をしたばかりである。

同地域に七月に入ってから鳥インフルエンザN5N1タイプがほとんど同時期に再発したことは不気味である。しかも感染が日々拡大している。 こうなるともうこの地域はN5N1が常在している状態と考えたほうが自然である。鳥インフルエンザは秋から冬にかけての病気と考えられていたが、こうなると時期に関係なしとなる。

タイの最大の鶏肉輸出企業のCPグループのトップはたまらずタイ政府に鳥インフルエンザワクチンの使用許可を申し出た。タイでは小規模養鶏農家のみワクチンが許可されているが、大規模輸出企業にはそれを許可していない。ワクチン使用は輸出に不利であり、衛生対策で企業はそれを乗り切れると考えていたが、事態はそれを超えて悪い状態になっているようだ。

この冬これ等のN5N1常在国から日本へ渡り鳥が数多くやってくる。これらの国々との物流、人の行き来もますます多くなっている。 日本だけがN5N1フリーでいられるわけが無い。N5N1が出たら殺して穴に埋める方式、根絶作戦はいずれ機能しなくなる。一億羽殺してもそれを根絶できなかったのだから。

国に業界が一致してワクチンによる防御作戦を要望しているのはそう言う訳です。

17/July/04

ぶらりぶらりボルネオ キナバル山徘徊?

キナバル山は日本の富士山より高くて約4100mある。富士山は容姿端麗でまことに美しい。これに比べキナバル山は峻厳にして怪異、とても言葉で表現できない。あえて言えば妙義山を巨大にして周囲を圧倒して聳え立っている感じ。ここは火山ではなく、太古海底から隆起したものであり、今もそれが続いているという。

富士山で言えば七合目あたりから樹木が消え、岩肌がそそり立っている。この地点に山小屋があり、計画ではここに一泊してから早朝2時に歩き出し、頂上でご来光を仰いで下山する予定、それはまことに富士山のそれに似ている。

孫の出産スタンバイで同行できなかったカミさんからよくよくクギをさされていた。「登山はドクターストップの身体、それでも登りたければ、他が迷惑だから最高額の生命保険に入ってからにして下さいな」と言われている。

初日、登りだしてから三時間、普通の人たちよりゆっくりペースの我老人軍団であったが、まず真っ先に私が音を上げていた。息も絶え絶え、心臓はパンクしそう、生命保険のことが頭にちらついたので、五合目でダウン、姉の一人とガイドが付き添ってくれ下山。

意気軒昂であった最長老の義兄は七合目の山小屋にたどり着いたが、さすがにここでダウン。結局頂上を極めたのは、甥っ子とその両親だけであった、その義兄は胃袋が無いはずだが、孫の顔を見た嬉しさか日頃の鍛錬の賜物かとにかくやり遂げた。 下山組は次の日、山麓の熱帯林の中を徘徊してまわり、それなりに楽しんだ。
(続く)

11/July/04

ぶらりぶらりボルネオ キナバル山徘徊?

ボルネオには二年ほど前、甥っ子と現地の娘さんAzumaの結婚式で親戚一同で出かけたことがある。一同といっても7人ほどであったが。 このメンバーを中心に、今度は赤ん坊が産まれて大きくなったのでお祝いに行こうということになった。この親戚一同というのが、甥っ子の両親を含め少し変わっていて、すっかりボルネオが気に入ってしまったのである。

孫に会いたいのはその爺婆にとって当然であるが、その他の者たちにとってはもう一つの魂胆があった。 5年ほど前に世界遺産に指定されたキナバル山(4100M)に登ることであった。この山は登山を志す者にとって、一度は登ってみたい山らしい。容貌峻厳にして怪異、いつもその頂上は雲に覆われている。機嫌の良い時にその姿を現す。

土地の者に聞いてみると、ここでは人が亡くなると、その魂がこの山頂に集まるのだという。日本にも似たような山岳信仰があるが、しかしその山容はあまりにも違いすぎる。意気は盛んであるが親戚一同、その山の容貌を見てたじろぐ。なにしろ一番若い私が68歳、あとは皆年上で、最高75歳の老人軍団である。脳卒中の経験者や、胃袋の無い者、おしっこの出にくいのやら、一人としてまともな者はいない。

頼りの甥っ子は山男である。世界中の僻地をプロジェクトごとに飛び回り、ほとんど日本に寄り付かない。 生活の本拠地もこのボルネオに定めたようだ。その彼が同道してくれるからひとまず安心だ。いつダウンしても引き返せる体制をつくり、この山のルールに従ってガイドを雇い、二日間の登山行は始まった。

8/July/04

Dick Chilson の死

C.M.C社のDick Chilsonが6月25日旅先で亡くなった。私より若いはずだから確か65歳前後であろう。 どうもこのところ同世代の者が亡くなり、とても寂しい。カリフォルニアを本拠地にして、全米の採卵養鶏の約四分の一を顧客をもち、採卵養鶏のコンサルタントとして、いつも全米を駆けずり回っていた。 最近はスタッフも10人前後になり、自分で飛び歩くのは少なくなったと言ってはいたのだが、、、。

彼は誰よりも早くPC(パーソナルコンピュータ)の採卵養鶏用プログラムを開発し、それを独自に販売すると同時に、顧客先の農場データをデータベース化し、利益をあげている農場のトップ三分の一の理由を計数化した。これがいわゆる「チルソンレポート」である。全米の養鶏家は彼の意見を聞きたがる。 毎年、アトランタで開催される全米養鶏大会では、彼の前に行列ができて順番を待つほどであった。

日本へは25年ほど前、当時ハイデオ社の所 秀雄氏が招請された。その時会って以来お付き合いをさせてもらっていた。当時彼の話は、日本の養鶏家にとっても刺激的であったし、現在にいたるまで常に革新的なソフトを開発し続けた。彼こそまさにパイオニヤであった。

彼の葬儀は7月11日、ロングビーチの沖でボートの上で行われる。参列する者はゴム靴とジャケットが必要と書いてある。 いつもマドロスパイプを手放さなかった彼らしい最後である、冥福を祈る。

5/July/04

松本楼のオムレツライス

東京日比谷公園松本楼は数奇な歴史をもっている。まずその場所は洋式公園第一号の日比谷公園のど真ん中に明治時代後半、公園建設と同時に建てられた。明治、大正、昭和にわたって、公園と松本楼はなにかあると政治の表舞台となってきた。

そう言えば、まだ血気盛んな学生の頃、ここの広場に集結して国会議事堂へデモをかけた事がある。それから十数年後の確か沖縄デーのとき、この松本楼は暴徒化したデモ隊に放火され全焼したと聞いている。現在の建物は再建されたものだが、なにしろこの公園に足を踏み入れるのは、学生時代以来であるのでなんとも懐かしい。それものんびり松本楼のオムレツライスを食べに行けるとは有難い。

天気が良かったので、念願のオムレツライスを屋外のガーデンテラスで食べていた。すると目の前にある大銀杏の樹の陰から出てきた雀が、私のテーブルにチョコンと座り、しきりとオムレツライスを催促する。これには少々驚いたが、少しお裾分けをすると今度は仲間がもっと増えてきた。面白いことに、雀たちはオムレツライスの卵の部分から先に食べる。嬉しいじゃないか、卵の美味いことを知っているらしい。

昼のお客たちの食べているものを見ると、やはりオムレツライス、ハヤシライス、カレーライスが多い。それを目当てにやってくる常連さんでその日も賑わっていた。ケチャップライスにオムレツを乗せるタイプで、ソースはいろいろと選べる。私はマッシュルームとビーフのソースを頼んだ。 @1000円也は味と場所の雰囲気を考えるとお値打ちである。