たまご屋おやじの独り言 2004年8月

28/August/04

日本たまご事情 鶏供養

9/16(木)、今年も神奈川県養鶏協会(角田克己会長)の主催で鶏供養が南足柄市大雄山最乗寺でとり行われる。これは戦後五十年以上毎年、業界の先輩たちが守り続けてきた大切な行事である。一時期、同じ曹洞宗横浜市 総持寺と交互にこれを行っていたが、最近は大雄山最乗寺専門である。
それは木立に囲まれた立派な本堂で僧二十数名によって本式に執り行われる。参列者も少なくなったとはいえ現在でも200名を超える、神奈川県が養鶏が盛んなときには300名を超えていた。

祭壇には籠にいれられた雄雌のニワトリが供えられる、これがどういう訳か読経の最中に呼応して「コケコッコー」と鳴いてくれるのである、不思議な話だがそうなる確率が過去断然高かった。読経のリズムがニワトリを刺激するのか判らないが、読経そして回向のあと、老師による法話があり、このことについて「皆さんのニワトリに感謝する気持ちが通じたのです」などと話し、参列者を嬉しがらせてくれた。今年は残念ながら鳥インフルエンザの心配があるため、生きたニワトリの参加が危ぶまれている。

私は式中「慰霊のことば」をささげる役回りであるが、手元に50年以上先輩たちが練り上げたその「慰霊のことば」の原稿がある。時代によってその内容は多少変わるが、骨子となるものは一貫して変わらない。
それはニワトリを私たち人間のパートナーとしてとらえ、人間の為に犠牲となったその霊に感謝し、その冥福を祈るものである。日本人は宗教の如何を問わず、動物にたいしてこの様に優しい気持ちをもっている。西洋型の文明国に現在吹き荒れる動物愛護運動をみるとき、なにかそこに根本的な欠陥があるように思えてならない。

22/August/04

鳥インフルエンザ 最強のモニターシステム

平成16年3月より実施された家畜伝染病予防法第52条による報告徴求(難しい言葉です)によって、全国の養鶏場は毎週一回その週に発生した死亡鶏数をその地区の家畜保険衛生所に報告している。

私の住んでいる埼玉県について言えば、まず農場のある熊谷家畜保険衛生所に報告し、これを県はまとめて国に報告する、国は県ごとに集計してその結果を毎週発表している。
ちなみに今日現在8/20付けで8月第3週分がホームページに公開されていた。
http://www.maff.go.jp/www/press/cont2/20040820press_2.htm
そのスピードには驚くべきものがある。

養鶏場が提出するそのデータも、未だかってない正確な数字が報告されている。もしこの報告に偽りがあれば、万一鳥インフルエンザがその農場に発生した場合、損害を一番受けるのはその農場であるからだ。偽りの報告をして、それがバレた時の社会的制裁の怖さを全国の養鶏場は知っている。

鶏卵生産農場では、昨年まで鶏卵の生産調整問題で羽数が正確に報告されにくい状況にあったが、実情に合わない行政指導による鶏卵の生産調整はなくなり、正確な羽数を報告がされるようになった、一歩も二歩も前進である。この世界的にも例が無い、正確で、スピードのある死亡鶏報告システムは全国をカバーし、8月13日現在 8049農場が報告をしている。

その総羽数は公表されていないが、県レベルではホームページで見られる。
埼玉県の場合は http://www.pref.saitama.jp/A06/BD00/k-eisei/index.htm
その補足率は非常に高いと考えられる。
この死亡羽数に異常があれば、ただちに家畜保険衛生所から問い合わせがくる、この暑さで熱死鶏が多かったため家畜保険衛生所はてんてこ舞いしたはずだ。農場でもこのデータを毎週報告することは大変なことだが、これに勝る鳥インフルエンザモニターシステムは無いので頑張るより仕方が無い。

世界中でも一番優れたインフルエンザモニターシステムは出来たが、問題は感染拡大を食い止める方策を農水省は根絶作戦(殺処分、埋設)で可能としているが、それに確信がある訳ではない。我々業として養鶏をやっている生産者はそれで解決できない事態を想定せざるを得ない。
日本独自の対鳥インフルエンザワクチン対策が急がれる理由である。


21/August/04

ぶらりぶらりボルネオ最終回 Tuaranの河

ボルネオでぶらぶらしていると時を忘れてしまう、ぼつぼつ旅を切り上げることとしよう。 恥ずかしい話だが、最後にちょっとした失敗談を書いておかねばならない。 旅も終わりに近づいて、少し気が緩んでいたに違いない。

好奇心のカタマリみたいな最長老の義兄(75歳)と二人で企んで、マングローブの生い茂るTuaranの河を舟で遡上しオラン・スンガイ(河の民)を訪ねることにした。この探検チーム?には私たちのほか欧米系の人たちが5人ほど加わった。船頭はギョロメで色が黒く獰猛な顔をしている、お祖父さんは首狩族で三つほど首を持っていたなどと冗談とも本当ともつかぬ物騒な話をしている。

この河は海水と真水が入り混じっていて、潮の満ち干きによってその水位が大きく変わるので、豊かなマングローブの森を育み、豊富な魚介類が採れる。 舟が遡上する時に餌をつけた罠のカゴを沈め、目印のブイをつけ、帰りに美味しい蟹を捕る算段をした。

河の中ほどでオラン・スンガイ(河の民)が河牡蠣を養殖していた、そこへ舟を留め てもらい生牡蠣を食べることになった。 河の水はどんより濁っていてとてもキレイとは言えない、みな怖気をふるって食べようとしない。欧米系の連中は「日本人は生の魚を食べるんだろう」とはやし立てる、馬鹿な話この 煽てに見事ひっかかり私一人が食べるはめになった。 二三個、生の河牡蠣をほうばったがどうも気持ちが悪いのですぐ止めた。

河をさらに遡りオラン・スンガイ(河の民)の水上部落に着いた、そこではこの河は 生活そのもので、食事の水であり、風呂場であり、洗濯場であり、水洗便所であった。元気の良い子供たちは家のテラスからその河に飛び込み水遊びをしている、この子たちは小さい時からこの河の水に慣れ、免疫力を持っているのであろう、あるいは弱い子供たちはここでは生き延びることが出来ないのかも知れない。

その河下に生牡蠣の養殖場があったことを思い出した途端、免疫力の無いひ弱な日本人の腹のあたりがシクシクしだした。 あとで聞いてみると、現地の人たちには食べてもなんでもない美味な生牡蠣も、外国の旅行者はたいてい腹をやられるそうだ。一人だけ青い顔をして、豊漁の蟹も眼にはいらず帰路につき、折角の夕飯もそこそこにベットにもぐりこんだ。

15/August/04

鶏友 高橋 勇さん逝く

八月十二日、鶏友 高橋 勇さんが急逝され、十四日前夜式(キリスト教の通夜)が熊谷教会で行われた。

それはご家族の方々、親戚、友人、教会の人たちに囲まれ静かにとり行われた。故人を良く知る牧師は高橋 勇さんの人となりを語り、故人の愛唱歌の賛美歌を歌い、そして祈った。
教会の仲間の人たちが、飾らぬ言葉で故人を偲び、語り、祈った。
最後に挨拶に立った息子さんは、父親の大事にしていた三つの事、信仰、仕事、家族、について話された。それは心を打つ前夜式であった。

鶏友 高橋 勇さんとの付き合いは40年以上になる。父親を若くして亡くした彼は 苦労して飼料商から採卵養鶏に進んだ。 現在でもその経験を生かして一貫して自家配合飼料経営を続けられている。彼のような大規模経営で自家配合飼料を継続するには独特な才覚を必要とされる、そ れをやり遂げ今は息子さんが立派に跡を継いでいられる。

高橋さんと私は同年代である。激動する日本の採卵養鶏を共に経験してきた同志と 言ったほうが良いかもしれない。 お互いに切磋琢磨し、時には議論がかみ合わず夜を徹することがあった。心に秘めた確信を持った人は強い。それを人は神とも仏とも呼ぶ。あの柔和な顔から は想像できない高橋さんの芯の強さはそこから来ていたのであろう。

今ではもうお互いに次の世代に仕事を引き渡し、孫どもに囲まれて賑やかに暮らしているその矢先の急逝であった。 高橋 勇さんの意思と生き様は、息子さん達をはじめご家族のなかに生き続けている、今はただご冥福を祈るのみ。

14/August/04

ぶらりぶらりボルネオ コタキナバルの海

キナバル山登頂組も、すそ野徘徊組も無事出発地のコタキナバルに帰ってきた。今ここはサバ州の州都で、イギリス統治時代はヅェセルトンと呼ばれたところであり、第二次世界大戦中は一時日本軍の占領下にあった。大戦中の日本軍、連合軍、現地の人たちの悲劇については、この島のいたる所に記憶として残されている。こうしてぶらりぶらり呑気に旅が出来るのも、先輩たちの犠牲のお陰によるものだ。

さて我々懲りない老人軍団の面々は、今度はどうしてもこの南シナ海で泳ぎたいと言い出した。甥っ子とその美人の奥さんは少々呆れ顔をしていたが、それならと言うことで我々をエンジンつきの船で30分の所にある小島に連れ出してくれた、もちろん奥さんとその8ヶ月になる赤ん坊も一緒である。

この島の海底は珊瑚礁でおおわれていて、裸足だととても痛くて歩けないが、海水は恐ろしいほど透明だ。変わりばんこにシュノーケルを借りて、それぞれ海中の景色を楽しむことが出来た。
私が海中にいた時、しきりと私の尻をつつく者がいる、はてな辺りに人はいない筈な のに、、、。 よくよく見てみると15センチほどの黒いタイみたいな魚がしきりに私に攻撃を仕掛けている、おそらくその魚の領分を荒らしたために怒ったのだろう。

戻ってみると、赤ちゃんとその母親もこのきれいな海で海水浴を終えていた、ボルネオの赤ちゃんは元気であった。

8/August/04

日本たまご事情 タマゴが無くなる?

養鶏場にとって鶏卵の生産コスト割れが続いてから久しい、もう一年半以上になるだ ろう。 通常のエッグサイクルの低卵価に加えて、鳥インフルエンザ風評被害が重なりとんでもない低卵価となった。 ながく鶏卵の仕事に携わってきた人たちにとっても予想外の連続であった。

ある意味では鶏卵業界は長期間とても安定していた。毎年の鶏卵生産量、採卵鶏用配合飼料流通量、初生雛販売量、などいずれを取って見ても、一年間で括ってみれば前年対比わずか数%の変動であった。しかしこの数%の変動が卵価には拾数%以上大きく影響してきたのも事実である。

日本の採卵養鶏、鶏卵関係の統計資料が官民から毎月発表されている。その中で最も 重要視してよいのが品目別配合飼料流通量のデータであろう。 これは日本の特殊事情もあって、世界中で一番正確なものであるし、日本の畜産関係の統計のなかでも一番信頼のおけるものである。
最近、採卵養鶏関係でこの数字に異変が起きた。永年にわたって前年比数%の変化が、ここにきて-10%台の変化になってきた。つまり鶏卵の生産現場において未だかってない大減産が起きていることを意味している。

鶏卵生産量のわずか数%の増減で卵価の大変動を来たした経験から言えば、10%の減産は「タマゴが無くなる」騒ぎになってしまい、価格は暴騰せざるをえない。消費者の皆さん方には、今まで安い値段でタマゴを買っていたぶん、今度はその分高 く支払ってもらわざるをえない。

辛抱してこの低卵価に耐えた生産者には、生産コスト割れで作った赤字を十分補う卵価になることは間違いない。そうでなければ日本中の生産者がいなくなってしまい、それこそ本当にタマゴが無くなってしまう。

たまご屋おやじの独り言 2004年8月

8/August/04

ぶらりぶらりボルネオ キナバル山徘徊?

キナバル山登頂断念組の私たちは翌朝、ふもとの山小屋で朝食をとった。ここは登山をする人たちか、またその関係者だけが出入りでき、一般の人たちはあまりやって来ない。時間が遅かったせいか、人々は既に山に出かけており食堂にいたのは我々数名であった。

食堂はキナバル山の山容が一望できる突き出たテラスになっていた。ここから頂上に至る登山道のほか人の通れる道はないようだ、あとは急斜面に熱帯雨林が延々と続いている。朝はキナバル山は機嫌が良いので、雲が切れその全容をみせてくれた。

山小屋の朝食は質素でシンプルなものであった。価格も日本のお金にすると150円くらいであったと思う。セルフサービス式でナシゴレン(焼き飯)、ミーゴレン(焼きそば)、スクランブルエッグ(炒りタマゴ)、果物、、、を好きなだけお皿にとり、景色の良いところに陣取って山を見ながらゆっくり朝食をすませた。

私は今日本で、名のあるレストランの卵料理を食べ歩くという馬鹿なことをやっているが、正直ここの質素なスクランブルエッグは美味かった。料理の味は半分以上その場の雰囲気と、食べる側の受け入れ態勢によると言われているが、まさにそのとおりである。その意味で贅沢な朝食であった。