ぶらりクロアチア ドブロヴニク(Dubrovnik) 二

ドブロヴニクのような古い街になるとその歴史には輝かしい眼も覚めるような部分と、眼を覆いたくなるような影の部分がある、今日はその悲しい部分に触れなければならない。
近くは1991年、クロアチアユーゴスラビア連邦から独立した時、独立に反対するセルビア人を中心とする連邦軍クロアチアとの間で内戦が起き、このドブロヴニクの由緒ある街が砲弾を受けた、犠牲者は多数にのぼり、旧市街の美しい歴史のある多くの建物が破壊された。
永い時間をかけて守られてきたそれらが、同胞の手によって無残にも壊されたのである、大部分は修復されたとは言え今でもその傷跡は残っている。

単一民族の日本人には想像も出来ないが、多民族が境を接して共存しているバルカン半島は、歴史的にも各民族の興亡が激しく、その地区の支配者は常に交代してきた、民族同士の対立、融和は繰り返されその記憶は各民族に抜きがたく染み込んでいる。
平時は共存していて一見仲良く暮らしていても、一旦ことが起きるとお互いの憎しみが増幅されて爆発してしまう、理性でコントロール出来る範囲を超える問題のようだ。

話は飛ぶが、同じ問題は旅の最後に寄った隣国(日本的感覚で言えば隣の県)のボスニアヘルツェゴビナの首都サラエヴォ(人口約50万人)ではもっと大規模な悲劇が起こった、ここはヨーロッパのカソリック圏とトルコのイスラム圏更にセルビア正教の接点であり、三つの宗教と多くの民族が共存している、1991年の内戦時、事態は更に複雑になり道路を隔てた住民同士がお互いに銃を向け合う悲劇となった、このサラエヴォだけで1万人の人たちが犠牲になり、街を歩いていると未だに建物の壁にのこる銃弾の跡が生生しい。

ドブロヴニクに話を戻そう、旧市街を囲む約2KMの城壁の上を歩いた、中世の時代、海に突き出た城壁は海上からの攻撃には鉄壁だったが、当時、空からの攻撃など想定することすらしなかったであろう。
城壁の上から見ると、紺碧の海と街全体が赤い屋根と白い壁、そのコントラストが絵のように美しい、しかし言われて気がつくのだが屋根瓦の赤色が微妙に違う、内戦時砲弾によって破壊されたそれを最近修復したものと、以前からあったものとの違いであるという。
輝かしい歴史と悲惨な歴史を飲み込んでこの街は更に生き延びて行くのであろう。