病気の効用

病気の効用

「歩く」 ことが私には「快眠、快食、快便」につながり、病気をしたことのある身体にはとても具合が良かった。現役のときは良いと分かっていてもなかなかその時間が取れない、若いときは無理がきくから多少のことは大丈夫だが年齢が進むにつれそうはいかなくなる。私が脳梗塞で倒れたのは65歳の時である、まだ気力は充実しやる気まんまんの時であった、しかし体力のほうは確実に衰えていたのであろう、やる気があっても体力がついてこない、それを無理したのが結果的には倒れた、あとになってみれば馬鹿なことをしたとわかるがその最中は夢中でそうはいかない。
有難いことに寝たきりにも半身不随にもならなかった、病気をきっかけにこれは自分の力ではなく「まだ生かしておいてやろう」とどなた様かの思し召しであるに違いないと考えるようになった、また病気をきっかけに自分なりの健康法なども考えてみた、いずれも病気をしたために気がついたことで、いわば「病気の効用」である。
毎日美味しくなんでも食べ、毎日快便することは本当に気持ちが良い、たしかに身体の調子も良くなる。同じことが頭にも云えると自分なりに気がついた。頭の栄養分とはもちろん日々取り込まれる情報のことだ、毎日の食事同様これは自分で選ぶことが出来る、するとどうしても自分の好きな食べ物に偏りがちになる、好きな肉だけを食べていればたちまち身体がおかしくなる、苦手な野菜類も同時にたっぷり摂らなくてはバランスがとれない、情報だって同じことが云えるのであろう。若い時には情報も飯を食っていくために専門馬鹿といわれるほどそれが偏ってもかまわない、そうでなければ生きていけない、私の年代になるとその情報もバランスが必要になってくると思う。
私は若い時から新聞の政治面にはほとんど興味をもたなかったしいまだにそれが続いている、いわば食わず嫌いなのだが、バランス上そうも云っていられない。食べ物同様なんでも口に入れてみてどうしても口に合わなければ吐き出せばよい。情報だって同じこと、案外食わず嫌いだけのことかも知れない。
情報の「快便」とはなんだろう?詰め込むだけでは便秘になって「腹ふくるる思い」になってしまう、それはよき話し相手を持つことであろうし、公の前で意見を述べること、俳句、短歌、文章の投稿などなど人によってさまざまだ、要は自分に合った「快便」の方法を見つけることだと思う。