牛車

第二次大戦敗戦の年から今年でまもなく63年になろうとしている。
月一回、私の通っている新横浜教会のほうから子供たちに戦争敗戦のことで体験したことを話してくれないかと頼まれた、私は敗戦の年9歳であったからその子供たちと同じ年頃であるのだろう。

ほとんどのことは忘れてしまったが、あることだけは強烈に覚えている、当時両親は横浜市の郊外で養鶏を営んでいた、敗戦を告げる天皇陛下のラジオ放送に親父は大声で泣いていた、日頃そのような姿の父親を見たことがなかったので子供心にもなにか大変なことが起きたのだ思った、終戦直後上陸してくるアメリカ兵によって婦女子は辱めを受け、子供をふくめ皆殺しになるとの噂が流れたらしく、都市部の人たちは先を争って田舎に逃げ出した。

私の両親は思いあまったに違いない、育ち盛りの7人の子供をかかえ当時500羽ほどの鶏もいて一日も家を空けるわけにいかない、お袋が髪を坊主頭にし、顔に墨を塗って男装し横浜の農場を守り、親父が当時仕事に使っていた四輪の牛車に子供たちと必要な食料家財道具を乗せ途中野宿出来るようにして横浜から埼玉県の東松山市の知り合いを頼って行くことにしたらしい。
牛の歩みがどれほどのものか、約100Kmの道のりを夜を徹して歩き続けたらしい、知り合いの物置小屋に落ち着いた時にはほっとしたのを覚えている。
後になって親父の話に、牛は新しい土地に行くことをとても嫌がり道中とても難儀したそうだ、そこに数ヶ月もお世話になったのであろうか、心配していた事も起こらず、いざ横浜の家に帰るときその牛は来た道を覚えていて、とことこ自分で勝手に歩き来た時とは大違いであったと笑っていた。

孫の世代に戦争のことを語り継ぐことはとても大切なことである、気安く引き受けたはいいが困ったことになった、第一牛車で家族が避難したと話しても牛車を子供たちは知らない、乳牛は知っているだろうが野作業用している牛を見たことがあるだろうか。
まてよ、お父さんお母さんと別れて別々に暮らしていたことを話した方が分り易いのか、、、もうすぐ終戦の日が近づく、それまで思案の日が続く。